取り留めのないことばたち。
※※ドがつくほどに主観※※
「田舎はあたたかいよね」
「人同士のコミュニケーションが密で、ご近所さんはみんな知り合い」
「自然いっぱいで、心に余裕が持てるよね」
とってもよくある、田舎のイメージ。
わたしはド田舎出身だけど、少なくともわたしの中ではこのイメージは間違いじゃない。
(このブログに出てくる“田舎”はすべてわたしの中での“田舎”にすぎません)
人のつながりに助けられたことなんか数え切れないほどある。
重大な身の危険を感じたことなんてたった一度もなかった。
空気だってきれいで、目にやさしい風景がそこかしこに広がっている。
なにがどう転んだって安全だった。だれかが拾ってくれていた。
でも、
とても小さなコミュニティで、固定化された価値観が浮遊していた。
親や先生の言うことがわたしにとって正しくないかもしれないなんて、知らなかった。
交友はほぼ無い顔だけ知っている人の近況が聞こえてくるのは当たり前だった。
わたしはその価値観の中で生きていくことは割とできてしまっていた。
先生や親の求めていることが分かっていた。
それを余裕綽々とこなして褒められることは心地が良かった。
だから、何も考えてなかった。
自分で自分のことを考える力が、わたしにはさっぱりなかった。
自分は何が好きで何が嫌いかも、あまり分かっていなかった。
少なくともわたしにとっては、何も考えなくても生きていけるような環境だった。
だから大学受験の時に苦しくなった。(田舎で高校まではほぼ一択)
スクールカウンセラーに通い詰めていた時期もあった。
大学生になって、大阪に来て、本当に、本当に、たくさんの人と出会った。
たぶん地元を出た18歳の時よりかは、考える力もついたと思う。
自分は何が好きで、何が苦手で、こういう人で、こんなことがしたくて、こういう人になりたくて、が、少なくとも当時より100倍くらい言えると思う。
あそこに存在する価値観がどういうもので、それのこういうところが好きで、こういうところが苦手だ、というのもなんとなく分かるようになった。
田舎はいいことだらけと思っていたけど、その反面多様性を認めるのが難しい冷たさもあるとおもった。仲良くできるのは、面倒を見れるのは、それが同じような価値観の中で生きている人だから、だ。違う価値観で生きている人に対する潜在的な拒否反応みたいなものが、すさまじい。特に、ずっと田舎で暮らしてきて、もうそこの価値観しか知らない人にとっては、他の価値観は得体が知れないものなのではないかと、感じてしまう。
だからなんだという話じゃない。
ただちょっと最近これに関してもやもやすることがあったので、書いた。
あ~~~~~、やさしいひとになりたい。
自分の意志つよくもちたい。
大切だからこそちゃんと伝えたい。
わかってもらえなくてもいいって思いたい。
ん~~~がんばろ。
余白
つい先日、所属している団体のメンバーで旅行に行ってきた。
そこで夜中、当然のようにひとつの部屋に集まってUNO大会が始まった。
ふつうに狭いし誰もが眠そうだけど、なぜかみんなでUNOをしている。(もちろん眠っている人もいる)
そこに目的なんかない、意味なんかない。
次の日のことを考えたら、絶対に今すぐ寝た方がいい。
なんで今UNOをしているかなんて、だれにもわからない。
ただひたすら流れる時間の共有をしているだけだ。
わたしは昔から、こういう意味のない時間がだいすきだ。
ミーティング終わりにご飯に行って、そのまま誰かの家でだらだらと意味もなくお酒飲んで遅くまで起きて、朝に目をこすりながら日常に戻っていくことを、よくしていた。
時には真面目な話をしたり、こんな時しか出来ない話をしたりするけど、ほとんどはその時間何をしてたかなんて覚えてない。
でも、それでいい。
意味のない時間は日々の生活の余白だと思う。
そしてその余白は、大人になればなるほど見つけにくいものだとも思う。
でもわたしはそういう時間がだいすきだし、これからも大切にしていきたい。
無理なく、ほどほどに。
涙が流れるのはどうしてか
ひとりで泣くのは苦手だ。
世界中で自分がひとりぼっちのような気がしてくるし、ひとりで涙を止めることがわたしにとってとても難しいからだ。
でも、どんどん自尊感情が育ってきて、誰かの前で泣くこともいつからか苦手になってしまった。
何度か泣いてしまったことはあるけれど、後に残るのは自己嫌悪がほとんどで、後味がよくない。
「泣いたらすっきりする」と言うけれど、わたしは“涙を流す”という行為のみで気分が晴れる経験をしたことがきっとほとんどない。
どうやらわたしは、心のうちにあるモヤモヤしたものを言語化しないと、負の思考回路からは抜け出せないらしい。ひとつひとつ名前をつけていくみたいに言語化して、すこし前向きになってきたところで小さな行動を重ねて、正のスパイラルで物事を考えられるようになる。
だからわたしの場合、そのモヤモヤが自分の限界値を超えて溢れだしてしまった時、緊急信号として涙が出てくるのだとおもう。
心の余裕がある時は、少しもやっとしたらその度に無意識的に言語化して昇華してきたけど、余裕がない時は、言語化するエネルギーも生活エネルギー(たべるねるといれおふろ)に無意識のうちに移してしまうから、モヤモヤは溜まっていく一方。
だから、涙が流れることで「あ、なんかわたしやばいんだ」って客観視して、それまで溜まっていたモヤモヤを言語化するのに手をつけられたりする。そうやって、涙が流れることに助けられてる時もある。
今まさにモヤモヤの言語化中で、今回は特に骨が折れるから、めっちゃ長い時間かけてゆっくりやってるけど、それでもめちゃめちゃにしんどい。
だからインターバルとして、そもそもわたしの涙流れるプロセスと不安解消プロセスを言語化してみましたとさ。
そしてわたしは今日も、
わたしはずっと、なにかと戦って生きてきた。
その正体はずっと分からないままだった。
時にはそれから離れ、何かに没頭したり、ゆるやかな時の流れに身を任せている時もあった。
でもずっと、ずっとずっと、正体不明の何かと戦っていた。
最近ようやく気が付いた。
それは、わたしだった。
わたしが戦っていたのは、他の誰でもないわたしだった。
もっと細かくいえば、承認欲求強くて他者からの視線や評価が気になって仕方がなくてプライドめちゃ高い、わたしが嫌いなわたしだった。
その弱さもまるごと受け止めて(全肯定という意味じゃない)自分らしく生きていきたいと願う自分と、その弱さがあることがしんどくて、強い部分でそこに対抗してきた自分がいる。
その矛盾が自分の中で顕著になっている時に、わたしはいつも原因もよくわからず落ち込んできた。
でも結局そういうことだった。
弱い自分を一番許せなくて憎んでいるのは、他の誰でもないわたしだった。
だから、わたしがわたしを少しでも許せることができていけば、もしかしたら、わたしの世界はまた少し、変わっていくかもしれない。
そんなことを思いながら、わたしは今日もわたしと戦っている。
いつか、共生したいと願いながら。
理解しかねることを受け止めたいと思う、愛のかたち
「じぶんには到底理解できない価値観」って、だれしもあると思う。
たぶんわたし含め多くの人は、普段の生活でそういう価値観に出会った時、「関わらない」という選択をとることが多いとおもう。あなたの心の平穏は今日もあなたが守って生きてる。
今わたしやあなたとよく関わっている人は、近しい価値観を持っている人たちが多く、また、パートナーや親友など、より親密な間柄にある人ほど近い価値観を持っていると思う。
でもたぶん、どんな人も同じ人間ではないので、「理解しかねる価値観」というものはたとえどんなに近い存在でもお互いに存在しえるのではないかともおもうのです。
そんな時に、「もう関わりたくない」ではなく、「この人のこの価値観も、それを理解できない自分も、否定せずに受け止めていきたい」と思うのか。
それは多分、ひとつの愛のかたちではないかなとか考える、夜ご飯を食べてない夜。
恋は、雨上がりのように。
舞台は、一軒のファミレス。
天気は、大体、
―――雨。
※※自分のためだけの文章になってしまった※※
※※すこしネタバレあり※※
小松菜奈さん演じる高校生 橘あきら(17)と、大泉洋さん演じるバイト先の店長 近藤正己(45)の物語。
物語のあらすじ等は割愛。
わたしが心動かしたセリフやシーンをつらつらと。
――――
「昨日言ったこと、嘘じゃないです」
「わたし、店長のことすきなんです」
「店長はわたしのことどう思ってますか?」
「返事を聞かせてください」
痛快。シンプルな本質。ここまでものの10秒。
言うのも聞くのも確かめるのも怖いと思ってしまうなぁ、と。
――――
「俺なんかのどこがいいの?」
「人を好きになるのに、理由がいりますか?」
「同世代だったらいらないかもしれないけど、俺と橘さんだったら理由はいると思うよ。」
レンアイに年齢は関係ないはずなのに、なぜか白い目で見られることがある。
一緒に歩いていると親子、もしかしたら援助交際のようにみられるかもしれない。
そんな社会の偏見とか圧力も少し含まれているのかな、と。
――――
「それは未練じゃなくて、執着っていうんだ。」
小説への夢をあきらめきれていない近藤に、旧友で小説家の九条がかけた言葉。
このセリフはこの映画のもうひとつのテーマを表している気がした。
「執着」ってことばも、個人的にはあまりいいイメージがなかったので、この映画の中での使われ方は少し意外だった。
――――
「じゃあどうして、こんなに胸がちぎれそうなの?」
たぶん、あきらが店長に敬語を使わなかったのは、映画の中ではこのセリフだけ。
ぎゅんってなった。
それだけ。
――――
もーーーとにかく小松菜奈ちゃんis強い、美しい、可愛い。
好きな人とのデートの日付にハートマークつけちゃうとこも、
それを見返してニヤニヤしちゃうとこも、
デートの日にすごくおめかしするとこも、
恋に効くおまじないをやたら信じちゃうとこも、
教科書に相合傘の落書きしちゃうとこも、
うっかり告白しちゃうとこも、
普段不愛想なのに店長と話すとめちゃめちゃ笑顔になるとこも、
もう全部全部まっすぐだった。まっすぐすぎて痛かった。
わたしも小松菜奈ちゃんに恋されたい人生だった。(?)
大泉洋さんも最高に自信がない45歳だった。
小説家になりたかったけど夢叶わず、ファミレスで店長をしている。
でもまだ小説もあきらめきれず、本に囲まれた部屋で毎晩白紙の原稿用紙にペンを向けては文字を書けずにタバコを吸う。
小説家として成功している昔の旧友(九条)と疎遠になっていたが、ふと連絡をとり昔のような関係に戻ることができた。
わたしは、近藤が九条に連絡をとることができたのも、あきらとの出会いがあったからではないのかな、と勝手に思っている。
たしかに無理やりな話のつなぎや展開はすこしあったと思うけれども、見終わった後の爽快感すごい。大事なシーン大体雨やのに。いやそれはあんまり関係ない。
あとオープニングが最高、初っ端に心持ってかれた。
恋愛が主なテーマなのかなと思っていたけれど、それだけじゃなかった。
もう少しで上映は終わっちゃうけど、もうひとつの大きなテーマ、気になる人はぜひ見てみてね。
『恋は雨上がりのように』公式サイト